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2022/8/17-28 個展「箱と布と木と油」
能天気な気分と深刻な気分がぐるぐると行ったり来たり回ったりなんだりかんだりしながら、なんだか毎日一応働いています。幸運にも今のところ毎日楽しく働いているけれど、毎秒0.4円。契約期間ももうじき終わるかも。住む家と飯のためには働かなきゃいけないわけで、そこに画材費とアトリエ代毎月3万円、今はメンバーが増えてちょっと安くなったけど。俺の収入だと案外絵を描くのも大変だ。今の生活だと1日4時間ぐらいは制作できるけど、本だって読みたいし映画も見に行きたいし遊びにも行きたい。こんな事言ったってしょうがないんだけど、宮廷画家や制作で生活費が賄える人たちの制作スタイルとは今俺は全然違うってわけなんだな。フランスハルスの慈善院の絵は、ハルスにパンをくれた人たちを描いてるらしいけれど、みんな凄く怖い顔をしているよね。気分によったら俺も人の顔があの瞬間でしか思い出せない時があるかも。
あー、書く必要のない様な事を書いてるんだろうか。
たぶん2月にみんな本格的に思ったと思うけど、俺たちはいったい何ができるんだろうと思う。色んなアーティストがいるし、他の人はわかんないけど、俺はただでさえチンケな絵描きだから、以前から思っていることだけど、こんなにアトリエに籠っていていったい何になるんだろうと思い続けている。コロナになった当初、手洗いワークショップをしているアーティストに対して、こんな事しかできないのかとがっかりしているというツイートを見かけた事があるけど俺もがっかりする側だと思う。この世界で起こってることと制作だか作品だかナンだかの距離感って俺にはまだ手探りなところが多くて、結局見ている事しかできていない俺よりはマシなのかな。このアトリエで何ができるんだろう。何もできないだろう。坂口安吾が終戦直後に書いた事っていったい何なんだろう。あの中で何を見て考えていたのだろう。俺にはわからん、わからん、わからん。
藤本タツキの短編の巻末に、美大生の頃に震災が起こって絵を描いてる場合じゃないと感じてボランティアに行ったって話が書いてあった。そういえばあの時の俺はニュースの映像で心臓をバクバクさせていただけで、インターネットで放射能の事を半端に調べて慌てたり、計画停電になった街を自転車で徘徊しながら、そろそろ仕事を探さなきゃなあと思っていたし、なんで俺が生きてんだろうと勝手に思ってた内の一人だった。俺は遠くに行きたいと思い続けているわりに、遠くの事だと切り捨てられるし、その癖に身勝手な自分事に集約するくだらない20代前半だった。今はどうなんだろう。
先月、秋葉原の無差別殺傷事件の犯人に刑が執行された。あの事件はいつ頃起こったんだっけ。もう14年前か。なんだか最近無敵の人とか言われる人がまた増えたな。ジョーカーに扮装しながら、でも顔は隠さないみたいな人もいた。秋葉原の犯人の「あしたも、がんばろう」というタイトルの、「鬱」の点描で描かれたアイドルマスターのイラストをトレースした絵が最近どこかで展示されていたのが記憶に残っている。嫌な絵だけれど、何かが少しだけわかるような気がしてしまった。印象派達の絵具に残った筆跡やストロークは制作の時空のモノである事を強調するかのようで、作者の痕跡を隠蔽するように描かれた神話の世界から光の目線を人間の住む世界に変えさせようとしているみたいにもみえる。秋葉原の犯人の絵は意味と手垢に収束した記号を一文字ずつグリッド状に配置して、俺には想像できないが、彼が愛着をもったのかもしれないイメージをトレースしている。このイメージが本当のところ彼とどういった距離にあるのかわからない。構造と虚構、身勝手な自分事がこの絵にもうかがえる気がした。
いわゆるマスマーダーたちの中に、俺の中で遠くに切り離しきれないものがあるんじゃないかと勝手に想像してしまい、それを手掛かりに考えてみる。
人間の存在は空中に浮遊するものではなくて、常にbe動詞を伴うんだろ。存在は外界と駆動しあうことで存在し、自己の存在をより確かなものにしたいとその駆動を自分以外の存在との関わりで広がろうと欲望するが、生活圏内の中で出会う存在者との関わりに自己の存在を浮き立たせる事では駆動からなる自律(と勘違うもの)を十分に確認できないと存在が認識している場合に、駆動の対象としての存在者を深度ではなく領域として扱いその欲望か頼りなさを賄おうとするのかもしれない。ある種のweb空間の網はこの欲望で構成されていると思う。webは存在の見られたいとする欲望を刺激する装置として優秀に振る舞っていると思う。為政者や権力者が銅像を建てる事は、彼が功績と捉える事や或いはその血も彼の存在に含めて、寿命を超えて存在を未来にまで伸ばそうとする、”be”を主語主体のAが消えたとしてもwasにさせずに”be”であろうとする、空間軸の存在欲望から寿命を超えた時間軸にまで拡大しようとする行いなのかもしれない。存在の欲望と寿命や危機はセットなんだろ。鏡像段階に親の目の中に自分を見つけるような、見られる欲望は存在に備わった機能であるのだろうが、見られるということは同時に孤立なのだろうし、過干渉な目の持ち主が孤立を阻む場合もあるのか。
経済、或いは情報、記号、システム、人間全体の間を媒介する、社会のメディウムが今玉座に居座っているのかもしれない。神の終わりなんてタイトルでキャンバスが貫かれても、代わりのものが今座っているに過ぎないのかもしれない。神の光に照らされて存在の規範を了解する世界の様に、人間自身もメディウムな社会のメディウムの中に存在のbe動詞を探さなければ存在ができないのだろうか。
あるいは、webの誕生が根本的に存在をそれまでとは変えているのかもしれない。上記の中で、生活圏内とその外部に切り離して話を進めてしまったが、それが間違いで、webはすでに生存空間としてもう繋がっているのかもしれない。それはただ存在領域が広がったというわけではなくて、イメージの複製可能化が原画(という言葉自体もそうだが)の持つイメージを増大し断片化して破壊した事のように、存在自体がそれまでのありようを増大し断片化し破壊しているのかもしれないし、増大断片化した幻肢に存在は宿らぬはずの痛覚を感じている場合もあるのだろう。
しかしweb後の世界を否定してもしょうがないんだろう。遠近法を持たない熱帯雨林の笑顔に憧れても、俺たちはもうこの知覚を手に入れてしまっているのだろうし。俺は改めて、ココっていうどこだか知らん場所に、あるって事とないって事について見直したいのかもしれない。出来るだけゆっくり。俺にとってはアトリエと、それを回るチンケな事だとしても、俺の生存のある場所について、断片的にだけれども拾い集めている。
2022年8月15日
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2021/11/24 絵画専攻助手展「EXHIBITION」挨拶文(編集:今井しほか)
この度は今井しほか、時山桜、長嶺高文、古木宏美の4名による絵画専攻 助手展「EXHIBITION」を開催いたします。
助手の業務だけではない、その経過や成果の一端を本展でご覧いただきたいと思います。
2021年11月現在、どの過程に今があるのかわからぬ状況である事は変わらず、緊張の糸は伸びきっている。
この未だ渦中、展覧会を行う、EXHIBITION。(何かへ向けて)公開する。
それはそうしようとする意思によってされる事であり、我々はそれを選択している。この状況下で展覧会を行うという事は共犯の様だ。何かに目を瞑っている。
私たちは公開するという事を選択している。当然のことでは無い。
見せる。見てもらう。能動受動。してもらう、させる。
ここで行われている事は、横目で一瞬あなたを確認して、その横顔を盗み見ることを許しているのとは違う。
ここで行われている事は、あなたに見てもらう準備を行っている。
ここで行われている事はしかし吃っている。
前に進んでは後退して、また進み後退する。自ら円環を作り出しその中で吃り続けている様だ。
反復し揺れ続けた、「あ」と「あ」が次の文字へ向かいながら、句読点に向かいながら、単語を発する。声色を変えて、類語を探して、息継ぎをして、
あの手この手で、さっきからあなたと呼ばれている私を含めたよくわからないものと、
軸足を奪い合って気付けば別の場所に立ち、思ってもいなかった言葉を発する。
きっと何か話したい事がある者達の中で、反復しながら往復できる場所で、今確かに変化するあなたとこの吃りを交換したい。
慌てて話し出したこの支離滅裂。でもまあ、俺たちも話したい事があるってことなんだな。
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2020/1/17,18「メトロポリスはどこへ行く」東京造形大学大学院修了展
我々はどこから来て、何者で、どこへ行くのか。
ゴーギャンの問い。過去現在未来は果たして一本の道なのだろうか。歴史は解釈だと言う。歴史は重要とされる時間の積み重なりではない。因果関係は疑われるべきで、ここにない過去と未来がマルチバースし、現在という時間さえもそうなのかもしれない。しかしそれでも僕らは唯一の身体で時間の上に生きていると感じる。 朝が来て夜が来て、眠りから目覚めてまた眠る。両親は僕を作り産み、僕の両親もそのそれぞれの両親から生まれた。永遠と思われる時を遡れば僕らの祖先はバクテリアまで遡れるのかもしれない。もし仮にその科学的事実とされている事が誤りであったとしても、アダムとイブがその果実を口にした時から始まったのだとしても、血と知の轍は遥かから続き、これから先も続いていくのかもしれない。 きっとこの脈々と続く何かは欲望の連鎖の中に続いてきた。その欲望は生殖を可能にし、腹を満たすための知恵を手に入れる事を可能にし、安全な睡眠を求めた。
そしてそれは拡大していく。
いずれ人間の脳みそを超えるAIを搭載したアンロイドが出来るらしい。それも30年後には出来るかもしれないという人もいるのだ。僕には信じる事が出来ないが、死んだアーティストが新曲を歌い、コンサートで機械が指揮をしたニュースを見ると、メトロポリスな世界がもうすぐそこまで来ているのかもしれないと思う事もある。しかしすでにシンギュラリティは来ているという人もいる。人間が効率化の欲望によって生み出したシステムというテクノロジーは、現在はそのシステム自身の効率化の欲望を満たす為に人間がいるかのようであると。マリネッティ達はスピードに憑りつかれた。僕らもまた新しいスピードに憑りつかれているかもしれない。アンドロイドのマリアに欲情した眼を向けるメトロポリスの貴族達。僕らはスピードに飲み込まれてしまったのか。 僕らは動物だ。猿が骨を振り回し敵対する猿を殺害をする映画のワンシーンを思い出す。空に投げた骨が宇宙船へと姿を変えるあの映画。テクノロジーを振り回す猿が人間なのか。
資本主義のシステムは広告の都市を広げ人々の欲望を刺激する。より良いセルフイメージをしいて、インターネットでは人間自身さえも商品価値を広告するかのように振舞い始めた。全てがまるでショーの様で、演出された鏡像がショーウィンドウの中で憑りつかれて演技を続けている。
手に収まる窓の中で情報は氾濫し鏡像が踊っている。その新たな道具はその中にネットワークを作り、窓の外の世界とは違う速度の時間が流れている。インターネットの誕生は別種類のコミュニケーションを作り、そのコミュニケーションの中間に鏡像達の住む世界が現れた。僕の言葉を僕の鏡像が代弁し、誰かの鏡像を僕はこの窓から眺める事が出来る。果たして現代をコミュニケーション過多と呼ぶのは正しいのだろうか。ある意味で正しい様に思う。しかし濁流の様に押し寄せる他者の情報はコミュニケーションすべき本体とは別の何かを作り上げている。コミュニケーションネットワークは隣人をもフィクションにしている。ファクトとフェークはスクランブルし、それは今複雑に加速している様に感じる。
嘘が常にこの世界にはあった。神を信じる様に、金と交換できない通貨の価値を信じる様に。フィクションと呼ばれる嘘はこの世界の必需品、或いは僕らの武器として、そして時に己を傷つけながら存在したのかもしれない。事実と虚構は二項対立ではないのかもしれない。現実とはその事実の中に開いた虚構の空洞を含み自立する様に思う。
今、見たいモノを見る事が出来る。知りたいモノを知る事が出来る。ファクトとフェークが混乱しながら情報は拡大爆発している。気を抜くと見たいものだけが見えてしまう。見えない知りえないモノがあると言う事を僕は肯定したい。見る事知ることは、見えないモノわからない事の存在を知る行為であるはずだ。
多様性はカテゴライズを増やす事ではない。他者に不可知領域の空洞が存在し、自己に対して自身も知りえぬ空洞を抱えている。他者にあるブラックボックスの存在をネガティブな事だとは思わない。他者とはやはり理解しあえるものではないのかもしれない。しかしそれでも僕らは関係の欲望を持っている。欲望は空洞に近づき旋回する。空洞を抱えた者達同士はその外周を互いに旋回し絡み合い螺旋を作る。DNAの二重螺旋の様に人は他者と絡み合い生命を紡いだ。
不可知領域への旋回に必要な遠心力は欲望から生まれるのかもしれない。欲望とは個体である僕らがいずれは消え去る定めであることから生じる抵抗なのかもしれない。欲望は間違いを起こす。それを僕らは歴史の解釈の中に見てきたはずだ。血と知と紡ぐ為に、僕らは業を抱えながらこの欲望と関わらなければならない。
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2014/11/28-12/3 「TOPIA」(Endline of UTOPIA) 新宿眼科画廊
ケルアックのオンザロードに痺れていた。もう物語の細かいことは覚えていない。とにかく西へ東へあるいは南へ車でぶっ飛びまくる様が、当時ただただ夜勤のコンビニバイトで日光の当たらない生活をしていた僕にはとにかく刺激的だった。
僕はビビリだ。人と話すのも時間がかかったし、絵を描きだす事さえビビって26歳で美大一年生やっている始末。こんな男だからディーンやサルに憧れても車を運転して知らない場所にぶっ飛んでこうなんて出来なかった。
幸い僕は友達に恵まれた。少数精鋭で、僕の望むことを話すこともなく、いつの間にか「真夜中のドライブ」は僕らの恒例の娯楽になっていた。それはオンザロードみたいな派手なものじゃない。0時前後に出発。まだ知らない場所の夜を見て朝までに戻ってくる。ただそれだけ。当時の僕たちの精一杯の遠さだった。
あの時に見た街の灯りや森の暗さ、言葉にすると単純だけど、あの頃の僕の目には、届かないものへの羨望を抱かせる何かがあり、指の隙間から眺める様な直視し難い恐怖があり、それは僕の生きている世界を示しているようだった。
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